学級日誌まとめ0303〜神さま編〜

年度の切り替わりに際し、この1年間書いた学級日誌を記録しておくブログです^^



この学級日誌で〇〇くんが「僕は無神論者」と言ってましたが私は有神論者ですよ〜。目に見えない何か力って絶対にあって、それはきっと小さな神さまの仕業だと思います。例えば、雲がきれい。例えば、空気が澄んでる。そうしたキラッとしたところに神さまは宿ってると思います。だから北海道に行ったときはそこかしこに神さまがいるなあと感じた(し、たぶん実際に「神さまいそう…」って呟いてた気がするし手を合わせたくなったし実際にも合わせてました)し、でもそういう自分の感覚って大切にしたいな、と思います。毎日の幸せはきっとそこから生まれるので。でもそういう日本的な神さまにもあこがれを抱くし、外国のいろいろな神さまにも等しくあこがれを覚えます。北海道のあの美しい空気感からアイヌのような神さまが生まれるのはごく自然だし、神さまだとか宗教だとかって不思議な引力があると思います。汚くも政治に利用されてしまった宗教でさえも美しく見せてしまうのだから、すごくきれいな世界だなと思います。でも私はいろんな神さまを感じていたいから、どれかに囚われることなくずっと無宗教でいると思います。でもこんな風に思えるのも宗教に対して寛容な今の日本の憲法のおかげですよね。日本人で良かったって心底思います。

学級日誌まとめ0303〜国語編〜

年度の切り替わりに際し、この1年間書いた学級日誌を記録しておくブログです^^



国語が本当に好きです。特に現代文がとても好きです。言葉が好きで、言葉が同士が織り成す色とりどりの世界が好きです。「国語ってどうやったらいいの」とこの間〇〇さんに聞かれてなかなか答えられなかったのですが、楽しむことが一番だと思います。これはきっと国語に限りませんが、私は国語の問題を解くときいつも、与えられた文章を読んで得た感動をエネルギーに変えて、それをパワーにしている気がします。この興奮を文字化しておきたい!と強く思うので、むしろ設問に対し感謝したくなることもあります(設問って大抵、心に強く響いたところばかり取り上げられているので)。それぐらい好きです、とにかく好きです。好きだからこそ悩むし苦労するし、上手くできないときは途方にも暮れるし放心もします。とても辛いけど、でもそれも遠くから見てみれば“楽しい”の中に含まれていて、たとえその時に解けなくても後から自分なりに気付いたり答えを見たりして気付いた何かしらの自分にとっての「答え」に辿り着けたときの喜びは格別です。苦しめば苦しむほど国語が好きになっていく気がするし、国語を好きになればなるほど国語が得意になっていく気がします。だから私は本当に国語が大好きなんだと思います。また、この「好き→苦悩→好き→得意」という構図はきっと国語だけに限らないことだと分かっている(どの科目でも多からずともこのプロセスを経験したことがある)のですが、他の科目はまだ好きが足りなくて、だからイマイチ火が着かないんだと思います。そろそろムリヤリにでも起爆させねばならない時期に来ていることも承知ですが。

ただ「好き」は強みだと思うので、ほんの少しでも感じた勉強への好きは、肌身離さず上着の裏にでもくっつけておくべきだと思います。鬱陶しくなったら害であるだけなので忘れたフリをすれば良いですが、決して取り外してはいけないと思います。勉強への好きはいつか必ず役に立つと思うし、然るべきタイミングに勉強の方から恩返しが来るんじゃないかと思います。勉強に向けて送ったラブレターは、きっとお返事が来ます。それを待ち続けることが、勉強における忍耐力なんだと思っています。

学級日誌まとめ0303〜数式編〜

年度の切り替わりに際し、この1年間書いた学級日誌を記録しておくブログです^^



数式が敷き詰められた黒板を見ていると、知らない森に迷い込んだような不思議な心地になることがあります。数学の勉強に手を抜いていた、という意味ではなく、妙な引力と妙な距離感を同時に感じるというか。そもそもシグマとかインテグラルとか、誰がどう作り出したんだろう…と純粋に思います。ゼロを発明したインド人はすごい、とは思いますが、そもそも世界を数式で表そうとしたその発想自体から、これどう生まれたんだろう…と考えてしまいます。数字が生まれるのは分かるしそれを利用した計算式が生きる道になるのも分かります。でもそれが発展して発展して発展して、今のようなテレビやエアコン、冷蔵庫や車などの便利すぎるモノ達に繋がっていったのは、「人間って“楽すること”への欲動が凄まじいよな」という思いにもさせられますし、少し怖いです。その怖さが、数字が作り出した機械仕掛けのモノ達への怖さにもなり、そのモノ達に支配されてしまう世の中が来てしまうかもしれない…という怖さにも繋がります。数学の問題でも「箱に入ったみかんは何個?」「〜」「〇〇個です」の「〜」の中に膨大な数式が存在するのを考えると少しゾッとします。会話と会話の中に詰め込まれ織り成された計算や数式…。計算、にもここではいろいろ意味がありますが……。…頭がこんがらがって来たので終わります(笑)

学級日誌まとめ0303〜「真面目」編〜

中1のときの自分を回顧してみると当時の私は今とはかけ離れたくらいに真面目だったなぁと思います。でもこの真面目というのは悪い意味で、何も考えていなかったがゆえの“愚”直さだったな、と思います。“上の人から言われたことは正しかろうが正しくなかろうが守らねばならない”といった考えが根本にあって、良いも悪いも考えずただ“褒められたい”の一心で過ごしていたような気がします。小学校のときはそういう校風なったのか周りにそういう友人が多く、何もおかしいことだと思っていませんでした。だから中学になって、うわ…自由だな私やっていけるかな、と真っ先に感じました。こんなに堅苦しくなって背筋を伸ばして優等生ぶってていいのかな、と右往左往していたときに先生が言ってくださったのはある当たり前の言葉でした。「言葉遣いに気をつけろ」「人の話は目を見て聞け」。ああ私このままでいいんだ、と強く肯定された心地になったのを覚えています。上から言われたことを誠実に守るのは美徳だ、と心底思います。でも学年が上がるにつれ“もし上の人が間違っていた場合”があり得るのではないかと気付いたときに、忠実に守ることと自分で考えて行動することとのバランスが上手くいかず苦しんだ時期もありました。ただその時期を経ても、人の話を聞くときの態度や言葉遣いは変わらず大切にできたままだったのが良かったなあと思います。言われたときは「そんなの当たり前じゃん分かってるし」って思っていても、無意識ながら心の中にずっと在るべき大切なことをあのとき教えてもらえて指導してもらえて良かった、と感じます。

学級日誌まとめ0115〜大人と子ども編〜

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何年か前からふと、思い出すように「大人みたいな子ども」と「子どもみたいな大人」どっちがいいんだろうって考えてしまいます。私はずっと小さい頃からどこか大人に憧れて、いかにも偉そうなことを言ってみたり小学校のときは何かとリーダー職に就いてみたりして“優等生ぶってた”節があったので、どちらかというと前者に近寄っていく、近寄りたい、という形でここまで来たような気がします。それで普通だ、それがいいんだと勝手に思っていたけれど、遠くから見たときに、例えばシルクハットを被って付け髭を生やして、仏頂面で杖をついている“子ども”と、「あれ何!これは何!すごーい!」ってずうっと目を爛々と輝かせている無邪気な“大人”、なりたいと思えるのは私なら後者かな、と思います。“大人”だから噛み分けはできているという設定内だし、いろんなところにアンテナ張れるのって大事だし素敵だなあって思います。目のおいしい使い方をしているから、きっと観察“眼”も鋭いし少しでもときめくことがあると瞳がキラキラと輝くし。曇ったままでは味気ないなあと思います。
でも「子どもすぎる大人」もそれはそれで良くはないし…。やっぱりバランスが大事なのかなって思いました。きっと大人ぶることもそれなりに大事だし必要だし気持ち良いし、だからって気持ちを抑え込みすぎるのもきっと違って、時にはハシャいでみることも大切なことだよなって感じます。そこで小出しにされて垣間見える「子ども」の部分がきっとその人の魅力の一欠片なのかなとも思うし、でも「子ども」がダダ漏れだとそれこそ「子どもっぽい」と皮肉られてしまうし。そこが丁度良い人ほど好かれやすいし慕われやすいんだろうな〜と漠然と思います。(こういうことを考えてこうして文字化しているところが既に「大人ぶってる子ども」だよなやっぱり…って自省してます)

学級日誌まとめ1115〜大河ドラマ編〜

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私今期の大河ドラマが本当に大好きで、1週間の心の拠り所にしてます(笑)「おんな城主直虎」というのですが、幕末の大老として有名な井伊直弼の先祖の物語です。井伊直虎といって、徳川四天王として名高い井伊直政の養母です。作品自体がものすごく作り込まれていて、必ずしも史実に忠実ではないのですが、俗説などをもとにしてあるので「こんな戦国あむたかもしれないな〜」と物凄く想像力を掻き立てられます。井伊直虎井伊直親小野政次、という幼馴染3人の深い関係性から話が始まり、その基軸が物語終盤になってもずっと活きているのですっごくキレイです、お話自体が。

日本史選択なので大河ドラマが好きなのは本当に助かっていて、「龍馬伝」「八重の桜」のおかげで幕末のいろんな知識が予備知識として頭にすり込まれているし、「平清盛」のおかげで源平のあたりは時代の雰囲気が掴めたまま覚えられるし、「江〜女たちの戦国〜」「おんな城主直虎」のおかげで戦国時代に対する興味が物凄く湧きます。父が戦国と幕末が大好きなのでその影響もありますが、見ていてよかったな〜とつくづく思います。その流れで、この間の祝日に父と2人で滋賀の彦根まで足をのばしてきました。彦根城博物館に行ったのですが、教科書や資料集の「分国法」の箇所に出てくる「今川仮名目録」の本物が間近で見られて感激しました!大河ドラマにも出てくるので「あれがこれか〜」とつなぎ合わせが出来て貴重でした。他にもたくさんの書状や、絵巻や、羽織や、像や、刀や、兜など様々な史料が見られて、良い体験になりました。あと余談ですがひこにゃんがほんっとうに可愛かったです!

学級日誌まとめ0927〜友達編〜

年度の切り替わりに際し、この1年間書いた学級日誌を記録しておくブログです^^



部活が終わってからよく〇〇さんと一緒に下校しているのですが、私と〇〇さんって脳内が双子なんですよ。考えてることが大抵は一緒だから、話してて気を遣うこともないし他の人には分かってもらえないことでも絶対に分かってもらえる自信があるから、何でも話すし話してもらえるし、その会話を客観視できるから自分の会話をより俯瞰的に見れます。

息をするように語ってしまうのですが〇〇さんと帰っていると時にすごく哲学的な話をすることも多々あります。もちろん好きな本とかそんな話もします。そんな時に私がポロっと宗教の話なんかを長々語っていても受け止めてくれるし、相手の話もスッと受け入れられるし、そんな友達って大切だなあと思います。勉強だけしてるんじゃなくて、友達と話して語って、自分の考えを固められることって大事だって気付いたし、そんな友達に巡り会えて幸せだなって思います。

幸いなこととしていろんな友達がいて、楽しいとき辛いときに側に居てくれる友達、話を聞いてくれる友達、聞いてあげる友達、些細なことで戯れる友達、ケンカする友達、語り合える友達などみんなみんな役割があって、自分に何か影響を及ぼしてくれてるって思ってます。サガとして1人が好きですが、でも友達付き合いって本当に大切にすべきものだなあと最近特に感じています。


→先生のコメント

いろいろ話をすることは、言語を持つ人間のidentityを発揮する最高の場です。高校の友達は永いつきあいができます。大切にしよう!