リミスリの話(ネタバレ有り)

THE LIMIT OF SLEEPING BEAUTY (リミスリ)という映画を11月中旬に見に行きました。わたしの中で「映画」の概念が覆った印象的、衝撃的な映画でした。この16年間で観た映画はリミスリしかない、と言いたいほどに「映画」だったんです(他の作品を否定するわけでは全くなく、ただリミスリがテレビで魅せられるものの延長上にあるものでは全くなかった、とただ言いたいんです。延長上に置いて魅せる映画も、あると思います)。


物語を纏めるということはここではしません。なぜならわたしには追えきれなかったから。なにしろ時間の流れがこれでもかというほど交差していたし、ひとつひとつの場面が何というか強い光を放ちすぎていて一回一回身体中を駆け巡るような心地になっていて(本当に)。監督の頭の中をそのまま作品にした感じ、という表現を高橋一生さんがしていましたが、そうなんだと思うんです。頭の中って誰しも理路整然とした作りにはなっていないはず。私もそうだしみんなそうで、ごちゃごちゃっとした中に深いところを見つけ出して奥深くまで入って行って1つの境地に辿り着けたりだとか、逆にごちゃごちゃな中こねくり回して深みにハマってしまったりだとか。更に言うと、頭の中はごちゃごちゃになっているからこそ、頭の外に出してペンやらスマホやらキーボードやらを使って「頭を整理する」作業というのをするわけですよね。私が今まで見てきた何か作品は全てその「頭で整理」されたあとの作品でした。スッキリしているし、仮に終わり方がスッキリしたものでなくてもストンと落ちる何かがある、あるいはストンと落ちさせないような意図がそこに働いていることが自ずと分かる。

きっと監督はものすごく勘が鋭く、頭の良い方なんだろうと思います。時間の流れをごちゃごちゃにするこの手法は「スポットライト理論」という理論に基づいているそうなのですが、これによって作品を「客観視しながら映像にのめり込んで観る」という観方ではなく「頭の中でぐるぐる繰り広げられていることを体感する」というふうに、限りなく主観に近い形で観ることが出来たんです。すごい効果だなぁと思います。だから私は実際、映画を観終わったあとしばらくずっと「わたしはアキだ」と潜在的に感じ続けているような感覚でしたし、いや違うんだけれども、疑ってなかった。本当に今から考えると不思議な感覚だったんです。魔法にかけられていた。わたしはアキで、あれは全てわたしが体験したことで。わたしの楽しみも「夢」も苦しみも痛みも快楽も絶望も羞恥も尊厳も、全部あの中にある、あの映画の中に全て詰まって映像となって生きている、そうやって思いましたし今でも思います。

すごく逆説的な表現だなとも思いました。主軸が置かれている場所は、都会の小さなサーカス団。この時点で、多くの人が身近に感じ得る設定だとは言い難い。だからこそどこかへ「連れて行かれる」感覚を覚えるのですが、でもアキ自身は「家出をして1人で都会へ飛び出してきた少女」だったわけですよね。そこは私達と重ね合わせることが出来ます。状況の深刻さは違えど、家族と折が合わなくなって「ああもう家出したい…」って思ってしまったことがある人って割と多いと思います、私もあります。だからこそこの設定で、アキは「わたしのもしかしたら」になりうるしそういう目で観ることができる。屋上の空間やサーカス団など、虚像空間のように見えるほどある種では俗っぽく、ある種では限りなく美しく、とにかくちょっと異空間のように見えてしまう(とはいえどこかに近さも感じるけれどそれも効果のうちだとは思う)のに、そこに迷い込む主人公はすごく自分に親しくて。しかも自分のキレイなところならいいけど自分の少し闇深いところ、マイナスの感情から生まれ出た行動(=家出)から共感を得たのがアキだから余計に客観視することを妨げて知らず識らずのうちにアキの中に自分が入っていく。そういう感覚でした。


ぐるぐると目まぐるしく場面が変わり、急激に進み変わり戻りを繰り返すそれは本当に頭の中でよく起こるそれで、「頭の中を体験している」といった心地でした。冒頭でジョーがアキのジントニックに薬のような何かを落とすと思うのですが、あのあとグルグルグル、と時が回るような演出があった。あれで観ている側も持って行かれたな、と思います。


アキはバグを起こして精神疾患のような状態になりますが、あれもどこか近いところを感じて。あくまで「頭の中」を映像化したようなイメージで観ているので余計に。頭の中でなにかをこねくり回しすぎて塞いじゃうことってないですか。あれに少し近い状態で、周りにどんなに揺り動かされてもアクションをかけられても私としてはビクともしないし逆に反抗的になってしまう。あまり上手く表現できないのですがあのアキの姿を見ても「わたしだ」と確かに思ったしむしろあれに一番自分を投影できたかもしれない、というくらいになにか、とにかく近かった。

迎えたクライマックス(アキとブッチの)はとても印象的で、それまでは暗く濃い色が多く使われていたけれど、あの場面で一気に光が差し込んだ。白い世界になった。そして半狂乱的に放った弾は標的に当たり、紅紅しい血の色でなくそれはカラフルな絵の具の飛沫となってそこらじゅうの白を色付けた。限りなく美しくて、主人公が無差別的に銃を放ち続けるという描写は客観的に見て倫理的にちょっと、と思われるようなこともあるかもしれないけどそれが逆に気持ちがいい、というような。あくまでもわたしはアキだから、わたしの頭の中ぜーーんぶアキだから。そうやって見てるから、(あれはアキの半生であり、頭の中を1人の人間の物語にすり替えて、その物語を頭の中で再生するわけだから)当然あの映画を観たあとはどっと疲れた心地がした。けど同時にこれまでにない、この世界に存在しうる言葉では絶対に表現できないひとつの「気持ち」が生まれて、それはきっと表現できないししてはいけない、表現してしまったらそれだけで陳腐になってしまう、と思われるほど大きな(大きな、という漠然とした言葉で形容するのが精一杯)気持ちだったんです。


家に帰っても次の日になっても言葉を使えませんでした。リミスリに関して何も言葉を出せなかった。出してしまうと「それ」だけになっちゃうから、しばらく放っておこうと。ただ使用されていた音楽を聴いて自分では意味の分かっていない無自覚な涙を流したりただ気分に任せてヘラヘラ笑ってみたり。まだわたしはあの瞬間たしかに「アキ」でしかありませんでした。

映画を観終わったあと、ずーんと圧倒されてなかなか立ち上がれずに、結局シアターを出たとき人は殆どいませんでした。全然あのときは「周りに変な目で見られやしないか」なんて一切考えずにシアターに向かって礼をしました。この空間の中にわたしを置いてきたんだ、そう思って礼をしました。ぼうっとしながら本来買うつもりのなかったパンフレットを買い、それを胸に抱きしめてふらふらと帰りました。家に帰っても何も言わず何も発さず、「どうだった?よかった?」と親に聞かれても「うん」と頷くことさえ憚られて、「よかったんじゃなくて」とか「どう、とかじゃなくて」とか、ゴニョゴニョ喋って、「よくわかんない」と言って、最後には「大切」とただひとこと言って、そのまま世界に入り込んでしまいました。たしかにあの瞬間「アキ」でした。パンフレットは胸に抱いたままで、そのまま眠りこけてしまいました。次の日になっても胸に抱いたままだったパンフレットは開けず、「これはわたしの頭の中が詰まった宝箱だから、開けてはいけない」そうやってずーっと思って過ごしていました。ちょっとペラペラ、とめくって「まだダメ」とパタン、と閉じて、ぎゅうっと抱きしめて、その繰り返しでした。あんなに大好きな直虎さえ、その夜見られる気がしていませんでした(結局見たしいつものように何時間も余韻に浸されていたけれど)。

それほどとにかく大きくて大切な作品でした。リミスリは、作品と映画館と私が1つになった、そういう感覚になった映画でした。高橋一生さんが出演していなければ観ることのなかった映画でしたが、高橋一生さんではなく「作品そのもの」を全力で堪能することができた映画で、そんな作品に出会えて心底幸せだなと感じました。様々な巡り合わせに心から感謝したいです。

直虎と並んで、大きく大きく影響された作品です。2017年、素敵な年でした。