学級日誌まとめ0713〜神さま編〜

年度の切り替わりに際し、この1年間書いた学級日誌を記録しておくブログです^^



突然ですが神さまって信じてますか?私は信じてます。…と言っても、何の宗教を信じてるわけでもないので固有名詞だったりはしませんが。山とか川とか、海とか空とかを眺めていると、心がさわさわっとなる瞬間があって、心が洗われるような心持ちになります。そういう気持ちを引き起こすのが「神さま」であって、そういつ気持ち自体が「神さま」そのものなんじゃないかなって思うんです。ビルが立ち並んでいてはあまり感じにくいことではありますが、北海道の雲を見たときに「昔の人はこういう神秘さに神さまを見ていたのかなあ」なんていうことを強く感じました。それ以来、神さまが宿っていそうなところをよく探すようになりましたが、探したってそんなところはなくて、決まって何も意識していないときにそういう場所って見つかるんです。人為は決して最強じゃなくて自然には敵わない、って感じる瞬間で、好きです。


→先生のコメント

神の存在について、といえば哲学者でだれでも挙げる有名な人がいますが誰だか知っていますか?

神という存在を設定すれば、人は恵みに感謝できるようになります。

学級日誌まとめ0713〜数学編〜

年度の切り替わりに際し、この1年間書いた学級日誌を記録しておくブログです^^


【数学について。実は数学できない割には、楽しいと思う瞬間がけっこうあります。というのは今も昔も変わっていないのですが、おかしいことに数学はどんどん苦手になっていきます…。昔は「楽しい、楽しい」と全てを受け入れていたのですが、今は「解明すること」の意味を自分の中で問い始めたときに、「数学を楽しいと感じるきもち」に歯止めがかかってしまいます。開けてしまえばそれでおしまいになっちゃうんじゃないか、とか、答えを1つに決めてしまってもいいものか、とか、もんもんと考えてしまうんです。これはただ単に文系脳すぎるのか、数学から逃げたいのか、何なのか分からないですが、数学の楽しさは体現したことが数知れずあるので、後者というわけでは無いのかな、とは思っています。

でも〇〇先生に数学を教わり始めてからは「答えは1つだけど、そこへの辿り着き方はいくらでもある、自分の好きな行き方で辿り着けばいい」というふうに数学を捉え直して、そこに数学をする意味を見出したような気になっています。これはたくさんある選択肢のなか自分の進みたいただ1つの道に決めることの練習をしているんだ、と思いながら数学の授業を受けています。私はとても優柔不断で悩みでもあるので、これから数学を勉強していく上でそれが改善されたらな、なんて思っています(笑)】


→先生のコメント

【数学の「答え」とは何なのかを突き詰めて考えると、「いくら」と出すのではなく「いくら」ということは分かった上での、その答えを出すStoryではないかと思えるのです。解答集っていわゆる「マニュアル」で、「マニュアル」通りに事を進めて上手くいったとしてもそこには個性が見えません。解答集って、「高校生ってこうあるべし」と勝手に決めた大人の都合のような気もします。】

リミスリの話(ネタバレ有り)

THE LIMIT OF SLEEPING BEAUTY (リミスリ)という映画を11月中旬に見に行きました。わたしの中で「映画」の概念が覆った印象的、衝撃的な映画でした。この16年間で観た映画はリミスリしかない、と言いたいほどに「映画」だったんです(他の作品を否定するわけでは全くなく、ただリミスリがテレビで魅せられるものの延長上にあるものでは全くなかった、とただ言いたいんです。延長上に置いて魅せる映画も、あると思います)。


物語を纏めるということはここではしません。なぜならわたしには追えきれなかったから。なにしろ時間の流れがこれでもかというほど交差していたし、ひとつひとつの場面が何というか強い光を放ちすぎていて一回一回身体中を駆け巡るような心地になっていて(本当に)。監督の頭の中をそのまま作品にした感じ、という表現を高橋一生さんがしていましたが、そうなんだと思うんです。頭の中って誰しも理路整然とした作りにはなっていないはず。私もそうだしみんなそうで、ごちゃごちゃっとした中に深いところを見つけ出して奥深くまで入って行って1つの境地に辿り着けたりだとか、逆にごちゃごちゃな中こねくり回して深みにハマってしまったりだとか。更に言うと、頭の中はごちゃごちゃになっているからこそ、頭の外に出してペンやらスマホやらキーボードやらを使って「頭を整理する」作業というのをするわけですよね。私が今まで見てきた何か作品は全てその「頭で整理」されたあとの作品でした。スッキリしているし、仮に終わり方がスッキリしたものでなくてもストンと落ちる何かがある、あるいはストンと落ちさせないような意図がそこに働いていることが自ずと分かる。

きっと監督はものすごく勘が鋭く、頭の良い方なんだろうと思います。時間の流れをごちゃごちゃにするこの手法は「スポットライト理論」という理論に基づいているそうなのですが、これによって作品を「客観視しながら映像にのめり込んで観る」という観方ではなく「頭の中でぐるぐる繰り広げられていることを体感する」というふうに、限りなく主観に近い形で観ることが出来たんです。すごい効果だなぁと思います。だから私は実際、映画を観終わったあとしばらくずっと「わたしはアキだ」と潜在的に感じ続けているような感覚でしたし、いや違うんだけれども、疑ってなかった。本当に今から考えると不思議な感覚だったんです。魔法にかけられていた。わたしはアキで、あれは全てわたしが体験したことで。わたしの楽しみも「夢」も苦しみも痛みも快楽も絶望も羞恥も尊厳も、全部あの中にある、あの映画の中に全て詰まって映像となって生きている、そうやって思いましたし今でも思います。

すごく逆説的な表現だなとも思いました。主軸が置かれている場所は、都会の小さなサーカス団。この時点で、多くの人が身近に感じ得る設定だとは言い難い。だからこそどこかへ「連れて行かれる」感覚を覚えるのですが、でもアキ自身は「家出をして1人で都会へ飛び出してきた少女」だったわけですよね。そこは私達と重ね合わせることが出来ます。状況の深刻さは違えど、家族と折が合わなくなって「ああもう家出したい…」って思ってしまったことがある人って割と多いと思います、私もあります。だからこそこの設定で、アキは「わたしのもしかしたら」になりうるしそういう目で観ることができる。屋上の空間やサーカス団など、虚像空間のように見えるほどある種では俗っぽく、ある種では限りなく美しく、とにかくちょっと異空間のように見えてしまう(とはいえどこかに近さも感じるけれどそれも効果のうちだとは思う)のに、そこに迷い込む主人公はすごく自分に親しくて。しかも自分のキレイなところならいいけど自分の少し闇深いところ、マイナスの感情から生まれ出た行動(=家出)から共感を得たのがアキだから余計に客観視することを妨げて知らず識らずのうちにアキの中に自分が入っていく。そういう感覚でした。


ぐるぐると目まぐるしく場面が変わり、急激に進み変わり戻りを繰り返すそれは本当に頭の中でよく起こるそれで、「頭の中を体験している」といった心地でした。冒頭でジョーがアキのジントニックに薬のような何かを落とすと思うのですが、あのあとグルグルグル、と時が回るような演出があった。あれで観ている側も持って行かれたな、と思います。


アキはバグを起こして精神疾患のような状態になりますが、あれもどこか近いところを感じて。あくまで「頭の中」を映像化したようなイメージで観ているので余計に。頭の中でなにかをこねくり回しすぎて塞いじゃうことってないですか。あれに少し近い状態で、周りにどんなに揺り動かされてもアクションをかけられても私としてはビクともしないし逆に反抗的になってしまう。あまり上手く表現できないのですがあのアキの姿を見ても「わたしだ」と確かに思ったしむしろあれに一番自分を投影できたかもしれない、というくらいになにか、とにかく近かった。

迎えたクライマックス(アキとブッチの)はとても印象的で、それまでは暗く濃い色が多く使われていたけれど、あの場面で一気に光が差し込んだ。白い世界になった。そして半狂乱的に放った弾は標的に当たり、紅紅しい血の色でなくそれはカラフルな絵の具の飛沫となってそこらじゅうの白を色付けた。限りなく美しくて、主人公が無差別的に銃を放ち続けるという描写は客観的に見て倫理的にちょっと、と思われるようなこともあるかもしれないけどそれが逆に気持ちがいい、というような。あくまでもわたしはアキだから、わたしの頭の中ぜーーんぶアキだから。そうやって見てるから、(あれはアキの半生であり、頭の中を1人の人間の物語にすり替えて、その物語を頭の中で再生するわけだから)当然あの映画を観たあとはどっと疲れた心地がした。けど同時にこれまでにない、この世界に存在しうる言葉では絶対に表現できないひとつの「気持ち」が生まれて、それはきっと表現できないししてはいけない、表現してしまったらそれだけで陳腐になってしまう、と思われるほど大きな(大きな、という漠然とした言葉で形容するのが精一杯)気持ちだったんです。


家に帰っても次の日になっても言葉を使えませんでした。リミスリに関して何も言葉を出せなかった。出してしまうと「それ」だけになっちゃうから、しばらく放っておこうと。ただ使用されていた音楽を聴いて自分では意味の分かっていない無自覚な涙を流したりただ気分に任せてヘラヘラ笑ってみたり。まだわたしはあの瞬間たしかに「アキ」でしかありませんでした。

映画を観終わったあと、ずーんと圧倒されてなかなか立ち上がれずに、結局シアターを出たとき人は殆どいませんでした。全然あのときは「周りに変な目で見られやしないか」なんて一切考えずにシアターに向かって礼をしました。この空間の中にわたしを置いてきたんだ、そう思って礼をしました。ぼうっとしながら本来買うつもりのなかったパンフレットを買い、それを胸に抱きしめてふらふらと帰りました。家に帰っても何も言わず何も発さず、「どうだった?よかった?」と親に聞かれても「うん」と頷くことさえ憚られて、「よかったんじゃなくて」とか「どう、とかじゃなくて」とか、ゴニョゴニョ喋って、「よくわかんない」と言って、最後には「大切」とただひとこと言って、そのまま世界に入り込んでしまいました。たしかにあの瞬間「アキ」でした。パンフレットは胸に抱いたままで、そのまま眠りこけてしまいました。次の日になっても胸に抱いたままだったパンフレットは開けず、「これはわたしの頭の中が詰まった宝箱だから、開けてはいけない」そうやってずーっと思って過ごしていました。ちょっとペラペラ、とめくって「まだダメ」とパタン、と閉じて、ぎゅうっと抱きしめて、その繰り返しでした。あんなに大好きな直虎さえ、その夜見られる気がしていませんでした(結局見たしいつものように何時間も余韻に浸されていたけれど)。

それほどとにかく大きくて大切な作品でした。リミスリは、作品と映画館と私が1つになった、そういう感覚になった映画でした。高橋一生さんが出演していなければ観ることのなかった映画でしたが、高橋一生さんではなく「作品そのもの」を全力で堪能することができた映画で、そんな作品に出会えて心底幸せだなと感じました。様々な巡り合わせに心から感謝したいです。

直虎と並んで、大きく大きく影響された作品です。2017年、素敵な年でした。

めちゃくちゃ暗い話、楽しい気分の時に読んじゃダメなやつ

ネガティヴなブログばっかり続きますが。


わたしの小学生のときの話から始めると、前の街から今の街へ引っ越してきて右も左も分からないわたしに「友達になろう」と言ってくれたクラスメイトがいたんだけど、その子とっても力が強くてそれを誇示するのが好きな子で。

「10回叩いていいから10回頭叩かせて」ってすんごい言われて、でもそれに対して抵抗してもどうせ叩かれるのが分かってたから受け入れたり。わたしは力が弱いし人を叩いたことがなくて(引っ越してくる前の環境のおかげで暴力ってよくわからなかった)、でもわたしが叩けば叩くほどその子の力は強くなって行って。痛い、頭おかしくなりそう、って言っても「あんた成績いいんだしいいじゃん」って。そうだね。って返した。全然、そうだね、じゃないのにね。


そんなことが続くうち、わたしだけが辛くて周りがそれで辛くないならそれがいいじゃんっていう考えがいつのまにか自分の中に定着してしまっていて(前回のブログにも書いた)、でもある時サバサバした子に「それは偽善だよ」と言われて「えそんなこと言うのわたしこんな我慢してんのに頑張ってんのに」って抗おうとしたけどそういう気持ちを俯瞰した瞬間に「偽善だな」って気付いた。


引っ越してくる前の街は今からすれば少し特殊で、ちゃんくん付けが当たり前の世界で呼び捨てなんてあり得なかったし、それこそいじめだなんて学園ドラマか漫画だけの世界だと思っていたから余計にショックが大きかったというかね。こっちが普通なんだって思ったときにすごく生きるのしんどいなって思った。温かい中でしか過ごして来なかったから、ギスギスした中で生きる必然性を思うとやるせなくなった。

まあでもそういう経験があったからこそ豊かになってる部分は大いにあるんだけど。後からみると辛いわけわかんない厳しい経験があればあるほど、そのときは枷でしかないのにあとあと糧になるからまあいいんだけど。よくないけど。


1度名前をもじって悪口を言われたことがあって、それはわたしは自分の名前がっていうことも辛かったけど親を馬鹿にされてる気がしたのがきつくて。小学生だったわたしは引っ越すことになった境遇を何度も心の中で恨んだけど親には「学校楽しいよ」って言ってた、2人は優しいからきっと学校でのことを言うと「俺のせいだ私のせいだ」って抱え込むしと思って。でも名前のときは耐えきれなくなって言っちゃったから親もいっしょに泣いてくれて、心強くて、そのときにああわたし耐えなきゃいけないんだって思った。いつかその子達が省みてくれるとも思ってなかったしこの状況が続くことも分かってたけど、わたしが抗うと余計に面倒だとも思ったし我慢することでその人達が満足するだけでそれだけならいいし、わたしはこれで強くなってやるけどあなた達はこれから困ればいいやわたしには関係ない、そうやって我慢するクセがついた。


中学になっても「いじられキャラ」なんて言われて、でも必然的に弱い立場に放り込まれてザクザクザクザクぶっ刺されてふらふらになって毎日神経痩せ細らせてたのは覚えていて、口が悪い人たちはすぐ「しね」「きえろ」なんて汚すぎる言葉をすぐ言うけれどわたしには笑うと言う手段しかなくて、でも空虚な笑いになってしまうと「笑ってない」って思われてしまうし、自分の「辛い」をどうにかしてでも隠していたくて、「いかにも楽しそうに笑う」という特技が出来てしまった。まあこれはいつだって役立つからある意味これも糧なんだけど。だってだって「しね」が愛情表現だなんて普通信じれますか…。「気にするな」って笑いながら言われるけど、「しね」と言われて気にしない人とは感覚のズレが確実にあるなあと思っている。関西人だから、関西人じゃないから、の問題ではないのでは、と。

誰もわたしの振る舞いを辛そうだなんて思わなくていい思って欲しくない。ただ前回も書いたけど誰か1人くらいは、もしかしたら辛いのかもという憶測だけ立てておいてほしい。笑ってるように見せてるんだから笑ってるんだなって見ている側は思う、それは提供する側も受容する側も望むところだしそれが結着点であるはずなんだけど、でも絶対に絶対に「泣いてるかも」と思ったらそれはどこかにこぼれているはずで、そのこぼれたものを拾ってくれる人がいてもいいじゃんと思う。わたしに言ってくれなくてもいいけど、ただわたしが泣きながら笑ってることに意味があるんだ、正しいんだ、わたしの中のこの泣きもこの笑いも嘘じゃないんだと誰かが分かっていてほしい、そう思うからこうやってここにこんなブログも書くんだけどね。

また続き書きます。たぶん。

人との対し方って難しいですよね〜

人間関係において無理する無理しないの度合いって人それぞれだと思うんですけど、わたしは「あの人怒ってるな」「あの人機嫌悪いのかな」って人に思われることが嫌だし、それによって誰かの機嫌が悪くなったり場のムードが悪くなるのがとっても嫌なので少々のことでは腹を立てないようにしてきたつもりです。言いたいことがあっても言わない、というが美徳だと心の底から思っています。もちろん傷つくことや辛いことがあって言い返したくなることはあるけど、それでグッとこらえて、自分偉いねよしよし、って少し自分を褒めてあげることで心の均衡を保っています、いっつも。

辛くてもなんとか笑って、たまにイラっとしても「なんでそんなこというの〜〜〜っ!」って冗談めかしてわたしが笑っていることで周りも笑ってくれるなら、嫌な思いをするのはわたしだけだしそれが1番全体としてのマイナスが少なくて済む、って思っていて。わたしはいつもそういう役回りだからマイナスを被るのは慣れているし、慣れていない人にマイナスが行くよりも慣れているわたしが吸収したほうが絶対いいし、って。

でも、そうやってピエロになることでみんな笑ってくれるけど、ピエロって泣いてるじゃないですか。無垢な気持ちで見ればピエロは笑っているように見えるし、笑っているピエロとしてピエロを見るのが普通だと思います。けれど「あ、泣いているな」と思ってピエロを見る人がどれほどいるか。それこそ政次の能面の原理だと思うけど、あの人泣いてるなと思って見れば泣いてるように見えるし、笑ってるなと思って見れば笑ってるように見える。見方次第でどうとでも取れると思うんです。でもピエロっていうのは面白おかしくやりすぎていて余計に涙が見えやすくなっているというか、割と顕著な方だと思うんです。その涙にどれだけの人が気づいてくれるのかな、と時々思う。涙の部分はなるたけ見せないように気づかれないようにしてるけどわたしは。「あの人泣いてるのかな」って思われて申し訳なくなられたりなんかしたらピエロやってる意味ないもん。

わたしも怒ることがあるけど、わたしがイラっとして怒ったせいで誰かがイラっとしたりすると元も子もないから極力怒らないようにしてる。ただどうしても怒っちゃうときもあって。能面だけじゃ耐えられなくて表情の外に滲み出てしまったときは、怒っていることがバレてしまうから、もうじゃあこれ以上隠しても仕方ないと思って怒ってしまうんだけど。普段怒らないわたしがいきなり怒ったからって友達泣かしちゃったこともあった。だから怒るのやだなって余計思ったけど。


今日、わたしが普段いろんなあれこれを笑って流して済ましてるっていうことを逆に利用されてしまった出来事があってすごくカチンと来てしまって。わたしがいない間に、わたしが笑い者になる手はずが勝手に整えられていて「〇〇なら良いって言いそうだったからさ」って言われて。自ら道化師になって笑い者になることは厭わないけど、人から強要されて辱められるのはちょっと鼻持ちならなくて。母に言ったら「おかしいことはおかしいって言いなよ」と言われたんだけど、正しいとか正しくないってどうとでも曲がるし、人それぞれにとっての正しい正しくないはあるし、1人の正しいを押し付けがましく主張するとそれこそ和を乱すわけで、みんなの正しいがきっとその場においての正しいだから、きっとわたしが主張を張っても正しくないになることは目に見えていて。

あ〜〜〜1人でみんながやりたくないことを被るんだよな〜〜〜〜あ〜〜〜って。いっつもそう。だから全然慣れてるけれど、やっぱりこんなのやだな〜って偶に思ったりもしてしまう。ほんとうに偶に。だから本当に政次の生き方を肯定できたことに意味があって、政次みたいな生き方は見ていて痛々しいけれど本人にとっては満足で、そしてその生き方で誰かを守れるしなにより綺麗だし。つくづく政次にありがとうを言いたくなります。知らず識らずのうちに政次に「いいんだよ」を言われていることが沢山ある気がする。

明日は皆既月食。月が全部見えなくなる瞬間がある。真っ暗になる。でも政次の指し示してくれたものを見失わないように明日も頑張ります。

界隈の騒動について(多方面にトゲがあるかもしれないので閲覧注意です)

‪あまり首を突っ込みたくなかったけれど政虎騒動のこと。


わたしは直虎と政次の関係性はもっと遠いところにあると思っていて、私達が普通に生活していて感じ得るような「恋」ときっと並べてはいけなくて、逆に恋愛というベクトル上にないからこその尊さだと思っています。‬

‪政次と直虎の関係性が好きだから政虎と言った時期もあったけれどそれは決して恋愛感情云々という過小範疇の話をしているつもりはなかった。恋愛関係に止めるとすごく陳腐になってしまうのではないかと思っている(あくまでも私は)。もちろん演じたコウちゃんが感じた二次的感情は、演じたのが彼女なんだからそれはホンモノだと思うし二次創作の読み物も膝を思わず打ちたくなるような素敵な物がたくさんあって、だから否定するつもりはないし1つの作品に対する感じ方いろいろで絶対いいから否定したくもないんだけど、ただ筋書きの根幹なわけだから森下さんの考え方がどう足掻いても公式であることには違いないし私は直虎と政次単体に着いて来たんじゃなくて森下さんの描く世界線に着いて来たから、キャラも好きだけどキャラだけが好きなんじゃなくて物語全体の流れや森下さんの捉え方掴み方感性描き方が心底大好きだからなるたけそれに沿っていたいと思っているしそれが一番自分の中では正しいと信じているし公式が一番届けんとしている物だと思うし、一番届け出からのメッセージを享受できる楽しみ方だと感じています。

ただどんなにどんなに素敵でも二次創作が二次的なものであることに変わりはないから多少の慮りは必要である気はするし、逆も然りで、過激な批判もどうかと思う。作品の作り手の最たる人は誰がなんと言おうと森下さんで、それに乗っかるのが役者で、表から見ると役者が引っ張っているように見えるけれど糸を引くのは脚本家であって然るべきはずで。その構図が逆になってはいけないような気がする。もちろん役者さんが引き糸を手にとってしまったとしても脚本家の方が「それでいい」と肯定したい引き方ならば問題はないけれど、脚本家の方の意思とズレが生じる引き方は役者さんでもどうなのかな…(森下さんの想像を遥かに超えた反響を呼び起こした一生さんの政次は正しい引き方をしていたと思っています)。

賛成も批判もあまりしたくないスタンスではいるけれど、だいぶ界隈がごちゃごちゃしているので常日頃思うことを言いました。私は脚本原理主義ではあるけれどどんな解釈もありだと思います。でも物語をひん曲げるのは違う気がするしその解釈を押し売りするのもきっと違うし、だからってそれをとことん批判して界隈のムードを下降気味にするのも違うと思う。違う方向に上昇し続けるのはもちろん違うけれど物語と物語を好きな人たちを好きになってなきゃこれから見たい話も見れないんじゃないかと思う。もし今ほんとうに続編の話が立ち上がっていたとして、界隈がムード最悪で立ち消えになったらそれこそ元も子もない。だから私はどの立場の方も悪いと思わないし酷いとも酷くないとも思わないし、全部アリだと思います。でも「この人の考え方はクソ」だとか「死ね」だとか乱暴なことを言うのはほんっとうにほんとうにほんとうにそれだけは絶対に違うと思うのでここに書きなぐりました。それだけです。最後まで読んでくださってありがとうございました。

実は


直虎の感想ツイいっぱいあげてた時は「うわこんな小娘が気取ったこと言ってる」みたいに思われたくなくて絶対言わないようにしてたんですけどなんか騙してるみたいだなって思って嫌なので言いますね、


わたし実は未成年です、

タメで喋っちゃうくらい仲良くしてくださる方は年上の方が多いのでなんかずーっと申し訳なくて。ごめんなさい…( ;  ; )

この半年間いろいろな方が話しかけてくださっていつも嬉しかったんですけど、「お仕事大変なんですね」「お酒でも飲んでゆっくりしてくださいね」みたいにすごい優しい言葉をかけてもらっても(あっわたし仕事やってないしお酒飲めない)みたいに思っちゃって罪悪感感じてました…

でもわたしはオトナな方々のお話がとっても好きだし、直虎のことにしても日常のことにしても眺めてるだけで(たまに抑えきれなくて横入りしちゃうこともありますが)いっつもふくふくして楽しくなっちゃうんですよね、話の内容が薄っぺらくなくてどこか面白かったり深かったりするから「なるほど」が多くて。そんな大人になりたいなあって思いながら憧れながらツイッタランド堪能してます。洋服にしてもドラマにしても食べ物もコスメも観光地も、ここで勉強することがいっぱいあって、いつかまともに大人になったらこんなキラキラしたお金の使い方したいなぁって常々思ってます。


同年代の方々とお話しするときも直虎界隈だと「なるほど」が多くて共感してもらえるし話してて楽しくて、ああもうここめっちゃ好き!ってなります(笑)普段の生活が充実してないわけでは全くないのですが、つい深ーいところまで考えてしまいたくなるので「あんたどこまで考えてんのそんなのいいじゃん別に」みたいに言われることが多いから、いろんな考えとかちょっと捻ってある楽しい話に触れられるここに癒しを求めに来ていて、ここの空間がものすごく好きなので、年齢明かすとみんな友達やめちゃうかな〜って思って怖くてずっと言えませんでした(笑)


これからも今までと変わらずにお話してくださると嬉しいです(無理にとは言いません)。年上か年下かって割と気にしちゃうんじゃないかなって思います(タメで喋っちゃって気に障るようなら遠慮なく言ってください…!)、少し前にどう見られてるのか気になりすぎて個人的にアンケート取ったことがあるのですが20〜30代だと思っている方が大多数で、50代だと思ってる方もいらっしゃいました… いくら顔の見えない世界とは言え20代を30代だって言うのと10代を20代だって言うのとではだいぶ違いますよねきっと。10代だってことはだいぶ大きな垣根に感じていますし、皆さんも感じるんじゃないかなーって思います。相手にされなくなっちゃうんじゃないか、考えて絞り出して書いたことを「大人じゃないから」「どうせ子どもが書いたことだし」っていう先入観からちゃんと読んで貰えないんじゃないかって少しでもよぎるとどうも口が重くて。「子どもの考え」って思われることがどーーーーうしても嫌だったんです(所詮子どもの考えなんですけどね)。


癒しと刺激が沢山もらえるここがめちゃくちゃ好きだし、お話することがとても楽しいし、感想ツイなんかに踏み込んだコメントくださる方がいるとほんとに楽しくて仕方なくなります。TLで織り成される会話劇も大好きだしいろんな豊かさを貰ってます、いつも本当にありがとうございます。もしよければこれからも仲良くしてもらえると嬉しいです……